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教師としての心構えを考える(最終回)

 投稿者:敏・記  投稿日:2016年 9月 6日(火)00時44分46秒
  ・きょう(6日「生クリームの日」)が誕生日の方【贈ることば】『あなたは、わたしの目には高価 で尊い。たしはあなたを愛している』(イザヤ書43章4節)・千枝子学姉(横須賀市)・美保学姉(廿日市市)・香恵学姉(廿日市市)・アダムズ(アメリカの女流社会事業家、1860年)《歴史メモ・帝国美術館創設される(1919年)・メイフラワー号、プリマス港を出港(1620年)》

せっかくやるのなら数千年も生き続ける仕事を!
「プラトン」の研究者として知られ、ドイツ思想界の指導的存在として君臨したばかりか、今でも世界中の思想哲学界をリードしているショーペンハウエル(1788~1860年)の言葉を引用して、この号をしめくくろうと思う。
 『自らの言葉で記した思想が数千年も生き続け、それゆえに古典作家、古典絵画か、古典作曲家という栄誉ある称号を与えられている古人は、一貫して非常に入念に書き、描き、作曲している。いい加減な態度で書いたり描いたり作ったりする人間は、自分の思想に大きな価値を置いていないことを告白しているようなものだ。なぜなら自分の思想には真理と重要性があると確信していれば自ずと取り組むことに熱中するはずだからである。粘り強い忍耐力を発揮して、もっと明快で、もっと美しく力強い表現で追求するには、この熱心さが必要なのだ。それは神聖なもの、はかり知れない価値がある芸術品、金や銀の器に対してしか湧かないような熱情である。自らの言葉で、或いは思想で記した作品が数千年も生き続けるものは、一貫して入念に取り組んだものばかりである。念のためプラトンは、「国家論」の冒頭の部分を7回も推敲して書き換えたと言われている。』

 

教師としての心構えを考える(昨日のつづき)

 投稿者:敏・記  投稿日:2016年 9月 5日(月)02時07分24秒
  ・きょう(5日「国民栄誉賞の日」)が誕生日の方【贈ることば】『あなたは、わたしの目には高価 で尊い。たしはあなたを愛している』(イザヤ書43章4節)・まち子学姉(立川市)・愛子学姉(横浜市)・絵梨学姉(長野市)・綾子学姉(相模原市)・正学兄(町田市)ヴィーランド(ドイツの詩人、1733年)《歴史メモ・ポーツマス条約調印(1905年)・・第一回米価審議会開催く1949年)・巨人の王選手が、世界初の国民栄誉賞を受賞した(1977年)》)

7、親切で塩味の効いた言葉

 聖書に『あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい』(コロサイ4章6節)とある。もし誰かからこの者に「あなたの生活で、家族を初めとして職場の同僚や生徒たちに語りかける時、親切で丁寧で塩味の効いた言葉を使っていますか?」と尋ねられたとしたら、自信を持って「イエース」とは言えない気がする。
 そこで、「親切で塩味の効いた言葉」として、とても参考になる朝日新聞(6,7年前)の「老人ホームでの入寮者に対する寮母さんの言葉使いの吟味」という記事があるので紹介したい。それは、老人ホームで働いている寮母さんたちが、「ずっとお年寄りの世話をして来たが、“言わなければよかった”という言葉を互いに出し合い、“それをどのように言い替えたらいいか勉強しよう”ということになった」という記事だった。
具体的に述べると『食事に関して悪い言葉遣いは、「まだ食べてるの?早く食べなさいよ」「まだもたもたしている」という表現であり、これを「ゆっくり味わって食べてくださいね」と言い替える。「どうして汚すの」と言っていたのを「気持ち悪いでしょ。いつでも取り替えるから、言ってね」と言い替える。入浴の時「便がついて、きたないね」と言うところを、「ちょっと汚れているから、きれいにしようね」と言い替えることになった。』
 そして寮母さんたちは、どう言い替えるかを考えた結果、いままで自分たちが気づかないところでずいぶん人を傷つけていたことが分かってきたというのである。そして「あたたかい言葉は誠実な実践から生まれる」というようなコメントがあって、「人の心をなごませる言葉を探していると、自分の心がなごみます。そして人の言葉に耳を傾けることは、自分の心を澄ますことなのです」と付け加えてあつた。

 『悔い』(河野 進)
 もっとやさしく言えばよかった  もっとたくさんあげればよかった
 もっとはっきり感謝すればよかった  もっとすなおにわびればよかった
 もっと本気で話を聞けばよかった  もっと親切に忠告すればよかった
 もっと熱心に教会へさそえばよかった  もっとの悔いは毎日かぎりなく
 

教師としての心構えを考える(昨日のつづき)

 投稿者:敏・記  投稿日:2016年 9月 4日(日)00時25分1秒
  ・きょう(4日「関西国際空港開港記念日」)が誕生日の方【贈ることば】『あなたは、わたしの目には高価 で尊い。たしはあなたを愛している』(イザヤ書43章4節)・由美子学姉(長崎市)・ヒロ学姉(大和市)・ミヨ(フランスの作曲家、1892年)《歴史メモ・発電所、最初の電流をおくる(1882年)・サンフランシスコ講和会議洞かる(1952年)・関西国際空港が開港した(1994年)》)*主日礼拝(聖歌来練習、ハンドベル練習)

5、アニメ漫画も、親が選んであげる責任がある
 子どもたちの大半が、テレビのアニメ漫画が好きでよく見ているようである。ところが、もし先生や親がその取捨選択をせず、何でも子どもの見るがままにさせているとするならば、最も人間形成の大事な時期の子どもに対して、無責任極まりないといっても過言ではない。人は、何を見るか、何を聞くか、何を読むかによって、その口から出る言葉や態度、行動が決まってくるからである。
 聖書には、『兄弟たちよ、すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、また徳といわれるもの、賞賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい』(ピリピ書・4章8節)と書いてある。
 もし賢明な家庭であるならば、子どもとの対話の中で時々テレビのことを取り上げ、「気に入っている番組は何か?どうして気に入っているのか?」「その好きな番組は、本当に見るにふさわしい番組だろうか?」「その番組を見てもよいかどうか、何を基準にして決めたらいいか?」を話し合うはずである。
 嘉手納教会附属幼稚園園長であられる池原厚子先生が、テレビ番組の悪害について、父母への適切なメッセージを書いておられるので、引用紹介してみたい。
 『とかく、ウルトラマンや怪獣ものが大好きな子に乱暴な子が多いようです。お友だちを相手にむやみやたらに「トヒャーッ」と言いながらキックをする。やたらと高い所に登り、飛び降りる。無分別で大人の言うことを聞かない。価値観は、やるかやられるかで、自分の持っているものは他人にあげたくないが、自分の持っていないものを他人が持っていると取り上げたいなど、それが共通している姿のようです。ところが、アンパンマンやトーマスが好きな子はそれほどではないのです。どうしてなのか、考えるに、敵とする相手の違いにあるのではないかと気がつきました。
 怪獣を相手にするものは相手を抹殺するまで戦います。殺したり、爆発させたりします。しかし、自分と同じものを相手にするものは、ただ懲らしめるだけです。その違いが、どっちが好きになるかによって、子どもたちの違いとして出てくるのではないでしょうか。以上断定は出来ませんが、長い間多くの幼児たちを見ていて、気づいたことです。幼児期は感性を養う時、清く優しい感性、正しく美しい感性などを持って欲しいものです。乱暴やけがれ、不正や悪を好まない人間性の基礎を養うために、子どもに与えるものを吟味することが必要ですね。単に身体の食べ物に止まらず、心の食べ物を!』。
 これに関連して、何年か前、音楽の指導でキリスト教系T幼稚園に行った際、そこの園長先生から伺ったお話を一つ……紹介したい。「うちの幼稚園にも、ときどき外部の幼稚園から転園して来る子がおります。すぐ仲良しになった子ども同士で遊びをするのですが、転園生はすぐ棒切れなど持ち出してチャンバラ遊びをやったり、キック遊びをやったりし始めます。ところが、いつもイエス様のみことばに触れて育っているうちの子どもたちはキョトンとしてしまって、誰も相手にしません。そのうちに転園生も、どうもおかしいと感じるようになり、仕舞いにはそんな遊びをしなくなります」と。

 

教師としての心構えを考える(昨日のつづき)

 投稿者:敏・記  投稿日:2016年 9月 3日(土)00時01分15秒
  ・きょう(3日「ホームラン記念日」)が誕生日の方【贈ることば】『あなたは、わたしの目には高価 で尊い。たしはあなたを愛している』(イザヤ書43章4節)・聡夫学兄(横浜市)・美穂学姉(長野市)・アンダーソン(アメリカの原子物理学者、1905年)《歴史メモ・初の市会議員選挙(1926年)・第二次世界大戦起こる(1939年)・王選手が756本の本塁打世界新記録達成(1977年)》)

4、教育者にふさわしい教師
  一般に「教師の任務は、自分が学んだことや体得したことを生徒に伝えることだ」と考えている。しかし聖書がいう教師はそうではない。聖書がいう教師は、神の御言葉を信じ、そのみことばに生きようとする人のことである。このような人こそ、『教師にふさわしい教師』として神に喜ばれるのである。子どもたちは教師が教えている内容など以上に、当人の人間そのものを見る。そして内側に燃えるような夢を抱いて輝いている教師、人格的に清潔である教師に敏感に反応する。聖書が教える「教師にふさわしい教師とは?」をまとめると次の三つになると思う。
(1)「人生はすばらしい!留まるな」と言って、人生を意義あるもの、価値のある
ものとして自分自身が輝いており、また伝えることが出来る。「やる気がしない」などと言って無気力になっている生徒に対して、「一人ひとりが神の作品なんだ!愛すべき者として造られているんだ!きみの人生の全てに主の備えがあるんだ!」と熱く語り続けることが出来る。
(2)「君たち一人ひとりが他の人とは違うんだ!その人なりの素晴らしさが与えられているんだ!」と、その特性を発見してあげ、その手助けが出来る。そして「神は人を機械によって大量生産されたのではない。実に丁寧に、一人ひとりを手づくりでお造りになったのだ!野の草花でさえ実に美しく、そして多様に造られたではないか。ましておやキミたちは、もっと美しく多様な素晴らしさを持つ者として造られたのだ」と、それぞれのユニークさに気づかさせ、励まし続けられ
る。
(3)学力をつけさせる大切さをも、忘れてはいない。主のご命令を忠実に守ろうとする時、学力がなければそれを果たすことが難しいことを知っている。学ぶということは、主の摂理の一端に触れることだから!また、学べば学ぶほど、この地上にある全てのものの奥深い秩序と調和に驚かされる!と伝えられる。

最後に、アメリカの生んだ詩人ダグラス・マロックの書いた詩を紹介したい、

   もしお前が 山頂の松になれないなら、谷間のやぶになれ!
  しかし小さくても川辺で一番良いやぶになれ! 一本の立ち木になれないなら茂みになれ!
  もしお前が 公道になれないなら野の小道とこそなれ! 太陽になれないなら星になれ!
  お前の成功も失敗も 大きさではかれない! お前は何であれその最上となれ!

 

教師としての心構えを考える(昨日のつづき)

 投稿者:敏・記  投稿日:2016年 9月 2日(金)00時46分41秒
  ・きょう(2日「宝くじの日」)が誕生日の方【贈ることば】『あなたは、わたしの目には高価 で尊い。たしはあなたを愛している』(イザヤ書43章4節)・信子学姉(相模原市)・千尋学姉(松山市)・ジョージ(アメリカの社会思想家、1839年)・ブルジェ(フランスの小説家、1852年)《歴史メモ・アクテイウムの海戦(前31年)・日本、降伏文書に調印(1945年)》)

3、今いちばん欲しいものは「自信!」
 「自分の性格が気にいらない……40%」「時々自分をまるでダメな人間だと思う……47%」「私はあまり人の役に立たない人間だと思う……40%」 これは今から9年ほど前に、教育雑誌社が小・中学生四千三百人にアンケートを取った結果である。
この者が音楽の授業で行っていたJ医大看護学校の学生さんたちに、ある日、玉川大学出身の女性教授が「いまいちばん自分に欲しいものは何ですか?」と聞いたところ、130名中およそ90名、およそ7割の学生さんが「自信が欲しい!」と答えたと伺ったことがあった。自信を失っていると分かる今の若者たち!なぜこれほど自信を失ってしまったのか考えさせられた。
 その一つとして、学校でも家庭でもいつも勉強が出来なければダメだ、というノルマで育てられるということではないかと思う。子どもたちは、いつでも何かが優れていなければならず、その条件でしか大人から認められないということである。特に事態が深刻なのは、現代のような競争社会では、いくら頑張っても頑張っても、「まだ足りない!まだ足りない!」の要求が突きつけられていることではなかろうか。そのような生活が続くと、自信の持てる行動や安定した対人関係が築きにくくなるのは当たり前ではないかと思う。
 これは親との関係でいうと、子どもから見て「自分は親の期待にそわなければ受け容れられないのではないか、承認されないのではないか」という不安が常に心の中に有り、一体どのくらい甘えたらいいのか、どのくらい自己主張したらいいのか、心理的にも物理的にも距離の取り方が分からなくなり、親子関係も希薄になってしまうということである。そしていつの間にか「私は、人から愛され、人を愛したい!」ということと、「私は、自分でも他人からも、存在価値のある人間だと思われたい!」を見失ったまま生きて行くということである。
 それではどうしたら子どもたちを、この自信喪失から救ってあげれるのだろうか。
その回答は、あらゆる時代を超えて私たちに生きる勇気を与えてくれる「聖書」に書いてある。なぜなら聖書の中心テーマは、『イエスさまは、「何かが出来なくったって、わたしは在るがままのあなたを愛しています!あなたの存在はこの宇宙よりも尊いのです!」と宣言しておられる』のである。このことをいつでも子どもたちに伝えてあげたいものである。

  『いいよ いいよ』(河野 進)
  約束の時間におくれまして  いいよ いいよ
  期日までにお返しできなくて  いいよ いいよ
  大切なお品をこわしまして  いいよ いいよ
  主イエスは 底なしの深い罪を無限にお赦し下さいました
 

教師としての心構えを考える(昨日のつづき)

 投稿者:敏・記  投稿日:2016年 9月 1日(木)00時37分22秒
  ・きょう(1日「防災の日」)が誕生日の方【贈ることば】『あなたは、わたしの目には高価 で尊い。たしはあなたを愛している』(イザヤ書43章4節)・美紀子学姉(浦和市)・進学兄(小田原市)・久美学姉(品川区)・憲雄学兄(横浜市)・望叶さん(北佐久郡)・アストン(イギリスの物理学者、1877年)《歴史メモ・関東大震災(1923年)・労働省発足、初の女性局長誕生(1947年)・初の民間ラジオ放送始まる(1951年)》)

2、わずかなよい行ないをも見逃さないでほめること
 子どもに接するポイントを覚えておいて、常に駆使したいものである。そのポイントというのは、≪子どもがよい行ないが出来るようなチャンスをいつも大人が作ってあげること、そして子どもがそれを実行したら即座にほめてあげることにしたい。
  例えば、食事の時だったとする。子どもに自分の箸を取りに行かせ、箸を持って来たらほめてあげる、アイスクリームを食べるためのスプーンを取りに行かせ、スプーンを持って来たらほめてあげる、といった具合である。この繰り返しこそ大切だと思う。
 この者自身の思いもかけなかった指導の成果をひとつ……記させていただこう。
小学5年担任をした時の、E君から出された「自由ノート」にあった文から。(注・このノートは、毎日どの子も日記代わりのもので、子どもから出されていた)
 『今日、音楽の時間に先生が僕のとなりにすわっていて、ほかの人の発表を聞き終わって拍手をしたら、先生が「E君、きみ、お兄さんになったなあ」と急に言ったので、僕はびっくりして「えっ」と言ったら、先生は「一学期の初めのころは、キミは拍手の時は手を打たないで、口だけで“パチパチ”と言っていたのに、いまはちゃんと手で拍手ができるからな」と言われました。僕は「そうかな」と思いましたが、「やっぱりそうだなあ」と思いました。一学期のころは口だけで「パチパチ」と言って拍手をしていましたが、このごろは口に出さなくなっていたのです。僕は先生の言葉にうれしくなりました。先生ありがとう』。
 このE君の書いた文に対して、赤ペンで書いた私の返事文が残っているので、その文も記述してみよう。「E君の進歩は先生も嬉しいです。こういうすなおな生徒を受け持ちに持って先生は幸せです。今度の林間学校では、きみのこの拍手がとても気に入ったので、グループ発表会のときも拍手で盛り上げてくれないかな?。ビン先生より」。

 『落し物』(河野 進)
 こどもの可愛いしぐさが ふと目にとまった
 ほめようか こんなことぐらい  一瞬ためらった
 こどもはもう見えなかった
 惜しい落し物をした どちら側にも
 

教師としての心構えを考える

 投稿者:敏・記  投稿日:2016年 8月31日(水)00時38分2秒
  ・きょう(31日「野菜の日」)が誕生日の方【贈ることば】『あなたは、わたしの目には高価 で尊い。たしはあなたを愛している』(イザヤ書43章4節)・吉洋学兄(横浜市)・祥子学姉(町田市)・かおり学姉(広島市)・サローヤン(アメリカの小説家、1908年)モンテッソーリ(イタリアの教育家、1870年)《歴史メモ・マラヤ連邦独立宣言(1957年)・シンガポール、完全独立宣言(1963年)》)

 いよいよ二学期のスタート!スタートに際して、教師としての心構えについて、ご一緒に考えてみたいと思う。
1、子どもは先生の目を見て教育される
 混迷してしまっている現在の日本の教育現状にあって、一番苦労しているのが現場にいる教師ではないかと思う。そんな時であるからこそ、『愛の賛歌』(Ⅰコリント書13章)を拠り所にして責務を果たして行きたい。その聖句とは『愛はすべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える』というみ言葉である。
 この『愛』の箇所を『教師』という言葉に、『すべて』の箇所を『生徒』という言葉に置き換えて読んでみよう。すると、『教師は生徒を忍び、生徒を信じ、生徒を望み、生徒を耐える』となる。この愛の姿勢が、毎日の教育の原点だと確信する。
 かってソクラテスが一人の男の子を家に送り帰してから、「わたしはこの子には何も教えることは出来ません。なぜなら、この子はわたしを好きでないからです」と告白したという。教師にとって「指導法」や「教材の工夫」も大事ではあるが、まず子どもから信頼される事が第一条件である。子どもから信頼されなければ、学習も学級経営も成り立たない。そして、この教師と生徒との信頼関係は、片方だけで作られるものではなく、双方によって作られるのである。
 この二学期、子どもとの関係がもしうまく行かないことが出てきたら、先ず自分と神さまとの関係を問うてみることである。なぜなら、教師と生徒との関係は、神さまとの関係がうまくいっているのかどうかに反映するからである。子どもたちは、鋭く先生の本心を看破する。何によって看破するかというと、教師の目を見てである。先生の目に偽りがなく、愛の輝きがあることを知ったならば、子どもはとことんついて来る。
 子どもの足の向けやすい教師とそうでない教師との分かれ目は、どこにあるのだろう。それは、主イエスの十字架を通して受けた愛の眼差しで教育しているかどうかにかかっているといっていいのではないかと思う。なぜなら、私たちがどんなに自分の努力で子どもたちを愛そうとしても、自分の力で人を愛することは出来ないからである。M学園の先生から聞いた、一人の男の子のつぶやきの言葉を付け加えたい。『ぼく、イエスさまみたいにやさしい先生が好き!』。(明日へつづく)
 

やめるには早過ぎる

 投稿者:敏・記  投稿日:2016年 8月30日(火)01時07分57秒
  ・きょう(30日「富士山観測所記念日」)が誕生日の方【贈ることば】『あなたは、わたしの目には高価 で尊い。たしはあなたを愛している』(イザヤ書43章4節)・貴裕学兄(稲城市)・いずみ学姉(八王子市)・さくら学姉(富士市)・智紀学姉(南会津郡)・シェリ(フランスの女流作家、1797年)《歴史メモ・幕府、九段下に洋楽所を設置、維新後「東京開成学校」となる(1855年)・富士山頂に「観測所」が設置された(1895年)》)

この者の好きな本の一つに、「人生の訓練」(エドマン著)という名著があるが、その中に、訓練の一つとして「成し遂げる訓練」という章がある。この箇所で博士は、自動車王ヘンリー・フォードが、記者からの「成功した生涯の秘訣は何ですか」の問いに対して、「何かを始めたら、それを終わりまでやり遂げなさい」と答えたことが書かれている。自動車王ヘンリー・フォードは、小さな横丁の、れんが造りの小屋で、一号車を一生懸命造っていた時、突然いや気がさして、興味も、忍耐心も消えてしまった。というのは、その車については、もうやるべきことはやった、しかも今のよりももっと良い二号車を今どうやって造ったらよいかが分かったと思った。だから、一号車を完成しても仕方がないということになったのだった。しかし、彼は思い直し自分にムチ打って、一号車を完成させた。こうして、一号車を完成させようと頑張ったおかげで、二号車の製作に関してより多くの点を学んだことに気づいた、と後で述懐していたというのである。彼は、本当によりよい仕事をするように誘惑されたのではなく、早めにやめてしまうように誘惑されたということに目覚めたのだった。エドマン博士は、これについて次のような所見を述べている。「やめるのはいつでも早過ぎる。やめてしまうことは、しばしば、もうすぐ開けそうな多くの道を閉ざされた通行止めの道にしてしまうことになる」と。私たちもこれを真剣に受け止めたいものである。『やめるには早過ぎる』は、とてもいい言葉だと思う。

 

誰もが圧倒的な勝利者に

 投稿者:敏・記  投稿日:2016年 8月29日(月)00時42分36秒
  ・きょう(29日「文化財保護法施行記念日」)が誕生日の方【贈ることば】『あなたは、わたしの目には高価 で尊い。たしはあなたを愛している』(イザヤ書43章4節)・千枝子学姉(長野市)・ゆめこさん(町田市)・メーテルリンク(ベウギーの劇作家、1862年)・ジョンロック(イギリスの哲学者、1632年)《歴史メモ・法務省、初の「犯罪白書」発表(1960年)・国宝や文化財を保護するための保護法が施行された(1950年)》)

人生の圧倒的な勝利者となった人たちの言葉を読むと、「自分は、とてもこのような人にはなれっこない」と思ってしまう。けれども、いかなる勝利者であっても、一挙にそのようになったのではないことに気付く。それぞれの取り組んだ道で、一歩、一歩、踏みしめて進み、遂に頂上に登り着いたのだと知ると、勇気が湧いてくる。ほんのちょっとした意志を働かせる行為、少しばかりの自己否定、心の中でのちょっとした勝利、ごくわずかなことに忠実であること……これらの積み重ねによって、彼らは遂に高い境地に達している。このような、人の目に触れない少しずつの行程は、誰の目にも見えない。目にするものは、出来上がったものだけである。一瞬一瞬の営みがあって、霊的な成熟が到来することを信じ、私たちも勇気を出そう。この者の好きなお話を、もう一度取り上げてみたい。
 『グラスゴー大学(イギリス)の有名なケルヴィン卿は、小さな力が大きな重いものを動かすのを、いつも実験によって大学生に証明してみせるのだった。彼は教室の天井から50キロ以上もある大きな重い金属のかたまりをぶら下げるように学生に命じた。彼は紙つぶてのいっぱい入ったバスケットを持って来た。そしてその重い鉄のかたまりを、小さな紙の弾丸で爆撃させたのである。クラスの学生たちは大喜び。
 初めのうちは、びくともしなかった。だがしばらくすると鉄のかたまりが震え始めた。そのうちに動き始めた。やがて大きな弧を描いて振り子のように揺れ始めた。小さな紙つぶての反復攻撃がこういう結果を生み出したのである。小さなことも、繰り返しやれば、大きなことを成し遂げることが出来ると教えたのだった。特に、続けなければダメであることを……。』
 

何をするにも愛を目的とする(昨日のつづき)

 投稿者:敏・記  投稿日:2016年 8月28日(日)01時22分31秒
  ・きょう(28日「民放テレビスタートの日」)が誕生日の方【贈ることば】『あなたは、わたしの目には高価 で尊い。たしはあなたを愛している』(イザヤ書43章4節)・弥奈子学姉(釜石市)・康子学姉(横浜市)・ゲーテ(ドイツの詩人、1749年)・トルストイ(ロシアの作家、1828年)《歴史メモ・日本最初のバイオリン、松永貞次郎によって完成(1880年)・民間初の日本テレビ、本放送開始(1953年)*主日礼拝(聖歌隊練習、ハンドベル練習)*リンガーズ練習(15:00分~17:30分)

第二次世界大戦が終わって間もなく、ヨーロッパは事態の収拾にやっきとなっていた。戦争のために、イギリス本国の広範囲が荒れすたれ、破壊されていた。おそらく最も痛ましいのは、そのように破壊した町の通りでひもじさを抱えている孤児たちの光景だっただろう。終戦直後の食糧難の時代に育った人だったら、この気持ちはお分かりだと思う。
 かなり寒い朝早く、ひとりのアメリカ兵が兵営に戻る途中、ジープでロンドンのとある角を曲がろうとした時のことである。一少年がパン屋の窓ガラスに鼻を押し付けているのが見えた。店の中ではパン屋が、次に焼くドーナツの粉を練ってる。腹をすかせた少年は、その動きを一つ一つじっと眺めていたのだった。アメリカ兵はカドにジープを止めると、降り立って、少年に近づいて行った。蒸気で曇った窓ガラスを透かすと、ホカホカのおいしそうなパンが、オーブンから取り出されるのが見える。それをパン屋は大事そうにガラスのカウンターに入れた。少年はツバを飲み込んでため息をついた。脇に立っていた兵士の心は、名も知らないその孤児に吸い寄せられた。
 「キミ、食べたいかい?」少年は目を見張った。「もちろんさ……食べたいに決まってるよ」。アメリカ兵は店に入って行き、1ダースほど袋に入れてもらうと、少年のところに戻った。そしてにっこりしながら、「さあ、食べていいよ」と紙袋を差し出した。兵士が立ち去ろうとすると、少年は兵士のコートを引っ張って、そっと尋ねた。「あの……あなたは神さま?」
実話はこれで終わるが、心に問うてみたい。「人生にはいろいろ大事なことがあるのだが、人間が人間に贈ることの出来る最善の贈り物は何だと思うか?」正解は「いい思い出です」。どんなにステキなものであっても、この世のものは結局は亡び壊れて行く。しかし、いい思い出だけは、受け取った人が意識不明にならない限り、一生続くものである。語り継がれるならば、その人の死後も続く。お互いに、かたわらにいらっしゃる主と共に歩み、いい思い出を挙げられる人になりたいものである。

 

何をするにも愛を目的とする

 投稿者:敏・記  投稿日:2016年 8月27日(土)01時19分7秒
  ・きょう(27日「男はつらいよの日」)が誕生日の方【贈ることば】『あなたは、わたしの目には高価 で尊い。たしはあなたを愛している』(イザヤ書43章4節)・千尋学姉(旭川市)・しのぶ学姉(取手市)・麻美学姉(秦野市)・和義兄and有紀恵姉結婚記念日(藤沢市)・ヘーゲル(ドイツの哲学者、1770年)・ドライザー(アメリカの小説家、1871年)《歴史メモ・東海村で日本初の「原子の火」ともる(1957年)・松竹映画「男はつらいよ」第一作公開(1969年)・純国産衛星打ち上げ成功(1987年)》

 イギリスの初期の社会主義運動家、エドワード・カーペンターの書いた詩に、こんなのがある。

  ひとつひとつの行ないに、あなたの注いだ愛の報いを求めてはならない。
  もし愛の報いを期待すると、それでおしまいになる。
  そうではなく、愛を目的にあらゆる行ないをしなさい。
  そうした時、今求めているものが最後に手に入るのだ。
  そのことがはるか昔の思い出になった頃、
  あなたのもとには誰も取っていくことのできない、永久不滅の財産が残っていることだろう。

 この詩の精神を解説すると、何をするにも愛を目的とせよ、親切であらんがために親切であれ、決して代償を求めてはならない、報いを求めないでやったことが、自ずと自分のためにもなっているのだ!というのである。すなわち、「たといノドの渇いた小さい者のひとりに、冷たい美味しい水を一杯与える」という小さなわざであっても、愛を込めて行なえば、神の報いからもれることはないというわけである。詩から教えられることは、人が見ていようがいまいが、人からの報いを求めないで、ひたすら愛と正義のわざに励みなさいということである。そして神からの御褒美は、老若男女、学識経験を問わず、すべての人に与えられることになる。それが心の安らぎ、満ち足りた喜びとなるばかりか、永遠の生命の冠となって表される。二学期が始まる。報いを求めないで、愛のわざに励ませて頂こう。こんな実話がある。(明日へつづく)

 

みことばに生きる人の強み

 投稿者:敏・記  投稿日:2016年 8月26日(金)00時28分5秒
  ・きょう(26日「人権宣言記念日」)が誕生日の方【贈ることば】『あなたは、わたしの目には高価 で尊い。たしはあなたを愛している』(イザヤ書43章4節)・直美学姉(藤沢市)・ひろみ学姉(多摩市)・錬一学兄(幌泉郡)・俊宏くん(長野市)・シェークスピア(イギリスの生んだ世界最高の文学者、1564年)・ドラクロア(フランスの画家、1798年)《歴史メモ・フランス人権宣言(1789年)・米国婦人、参政権獲得(1920年)・レインボーブリッジが開通(19993年)》

グンゼ製糸の初代の社長、波多野鶴吉氏のことを記してみたい。波多野氏は若いとき、河合信水牧師の導きによってイエス・キリストを信じ、救いの道に入った人物である。氏は毎朝、職場の人たちと一緒に聖書を学び、み言葉によって会社を経営したのだつた。その頃の営業は、少しでも利益を上げようと、一流品の中に二流品を混ぜて輸出することが常識になっていたというが、氏は聖書のみことばに触れて、二流品など1ミリも混ぜないで、見本と同じ一流品を輸出していた。「そんなことをすれば、経営は成り立たない。今に倒れるぞ」と周囲からいわれたそうだが、氏はアメリカの得意先から「グンゼ製糸のものなら検査は要らない」という破格の信用を得、変遷のはげしい業界で、現在に至るまで栄えている。
これは生きた信仰の祝福であろう。会社に限らず、ごまかしの生き方をする者が多い中で、一人真理の道を歩くのは生半可では出来ない。だから細い道である。この道を見つけて進んで入ろうとする人は少ないだろう。しかし、この道だけが生命に至る道である。この「牧心塾」に連なる同士の皆さんと共に、この生命の道を歩みたいと思う。

 『あせる』(河野 進)
 街路で車は追い越しだけをあせっている 田畑で増収穫だけをあせっている
 企業は製品売り込みだけをあせっている 労働者は高賃金だけをあせっている
 わが子の名門校入学だけをあせっている  わが家の生活の安定だけをあせっ
ている
 大国は軍備の拡充だけをあせっている すでに世界は心のない砂漠に化しつつ
  ある

 

人生には二つの道がある

 投稿者:敏・記  投稿日:2016年 8月25日(木)01時03分53秒
  ・きょう(25日「東京国際空港開港記念日」)が誕生日の方【贈ることば】『あなたは、わたしの目には高価 で尊い。たしはあなたを愛している』(イザヤ書43章4節)・美穂学姉(中野区)・博明学兄(富士見市)・聡子学姉(富士市)・優化さん国立市)・マルコニー(イタリアの電気技術者、1874年)《歴史メモ・ポルトガル船、種子島に漂着(1543年)・名古屋工業技術試験所で日本初の太陽炉完成(1955年)・羽田に「東京国際空港」が開港した(1931年)》

 「人生は道なり」とはよく聞く言葉である。どんな道を選んだかによってその人の生涯が決まってしまう、と言っても過言ではない。イエス・キリストはそのことで、「人生には二つの道がある。一方は狭い門から入って行く細い道であり、もう一方は大きな門から入って行く狭い道である」といわれた。この広い道のほうは、たくさんの人々が歩いて行く道で、らくな安易な道であるが、これに比べて細い道のほうは、大衆にとっては興味がない道で、この道を見つける人は非常に少ない。
 この二つの道には、それぞれ行く先がある。細い道のほうは永遠の生命に到達するのだが、一方、たくさんの人たちと一緒に歩いて行く広い道のほうは、最後には滅亡となる。それで主イエスは、「狭い門から入るように」と勧めたのだった。人間というのはおもしろい面があって、殆どの人が「みんながやるから自分もやる」という心理が働く。人の流れに同乗しないと、何だか自分だけが取り残された気になるのである。現在やっている事に、どれほど高い価値があるかということは、あまり意には介しない。ただみんながやっているからするだけのことである。
 女性のミニ・スカートもその一例だろう。飽食やグルメもそうだろう。時代の○○方式に右往左往する教育もそうだろう。それに車や機器類など、数え上げればきりがない。一番の問題は、これに気づかないでいることである。確固たる価値観を持っていないと、知らないうちにどんどん世の流れに押し流されてしまい、自己を失ってしまう。こんな世の中の流れに押し流されないでいるのは、決してやさしことではない。勇気も力も必要である。しかし本当に「せまい道」を歩もうと願うなら、いつも聖書に真理を求め、主イエスの招きに応じて、歴史に耐える価値ある道を選ぶことである。

 

せかせかと急ぐ人生は道に迷う

 投稿者:敏・記  投稿日:2016年 8月24日(水)00時25分25秒
  ・きょう(24日「ラグビーの日」)が誕生日の方【贈ることば】『あなたは、わたしの目には高価 で尊い。たしはあなたを愛している』(イザヤ書43章4節)・かおり学姉(町田市)・真帆学姉(豊玉北)・シュピッテラー(スイスの詩人、1845年)・若山牧水(歌人、1885年)《歴史メモ・ヴェスヴィアス火山の大爆発(79年)・リンドバーグ夫妻、北太平洋を横断して根室に着水(1931年)・イングランドの高校のフットボールの試合中に、ルールを無視して一人の学生がボールを抱えて相手にゴールしたのが「ラグビー」の発祥となった(1823年)》

せっかく良い目標を立てて、一生懸命取り組んでいても、私たちはあまりにも結論や結果を急ぎ過ぎたがため、失敗してしまうことがあるものである。昭和の初め、内閣総理大臣となり、その風貌から「ライオン宰相」と呼ばれた浜口雄幸という人は、中国のことわざにあるように、「ゆっくり行くことを恐れず、ただ立ち止まることだけを恐れた」無類の勉強家だった。
 彼は、よく功をあせる若い人たちに、次のように言って諭したという。「人生は混み合う列車の切符を買うために、沢山の人々と一緒に窓口に列を作って待っているようなものである。なかなか自分の番がこない。発車の時間が迫る。するとあせってきて、列を飛び出したくなる。他の列のほうがすいているように見えるのだ。しかし自分の列を離れて、あちこちウロウロしてみても、どの列もみな同じように混んでいる。自分はその最後につかなければならない。シマッタ!と後悔して元の列に戻ってみてもここでもシンガリにつかねばならず、今まで待った分がムダになるだけである。結局、急いだためにかえって遅れることになる。自分の順番を気長に、ジッと待つ根気……これが世に処するにおいて、最も必要なものである」と。せきたてる人生はむなしいということになる。
これに関連して、皮肉を込めて書いた「詠み人知らず」の人の書いた詩を紹介してみたい。

 あなたはできるだけ早く、赤ん坊をせきたてなさい。
せきたて、心配させて、大人にしなさい。
 赤ん坊の服を脱がせ、ズボンをはかせなさい。
 知識を詰め込んで 歩き出したら 早くどんどん押してやりなさい。
 それから小学校に送り 話を詰め込み、塾にかよわせ クラブにはいれ。
 彼の頭に数字や事実を いっぱいに詰め込みなさい。
 一度 子どもが合理的な早さで成長すれば、
今度はあなたが待っている間に 私たちは彼を大人にする。
 大学を大急ぎで卒業させ 無理矢理に知識を詰め込ませ
商売につかせて金儲けをさせ、
 後に彼は口ひげを生やし、かっては子どもであったことを忘れてしまい、
 金銭は彼の神となり、ジャラジャラ鳴らす楽しみに、
息もつかせず せっせと働かせ、最後の勝利をするまで。
勝利すなわち神経衰弱と死

 

いいものは時間をかけている

 投稿者:敏・記  投稿日:2016年 8月23日(火)03時42分4秒
  ・きょう(23日「白虎隊の日」)が誕生日の方【贈ることば】『あなたは、わたしの目には高価 で尊い。たしはあなたを愛している』(イザヤ書43章4節)・奈津子学姉(厚木市)・プロコフィエフ(ソ連の束曲か、1891年)《歴史メモ・白虎隊の自刃(1868年)・石橋山の合戦(1180年)・日本最長の「「恵那山トンネル」完成(1975年)》

 野性のウグイスは、親ウグイスの鳴き声を真似て上達するのだという。だから、籠に入れて飼っているウグイスは、ヒナのうちに最も鳴き声の良いウグイスの師匠をそばに置いて仕込めばいいという。初めのうちは、師匠の「ホー、ホケキョ」の名調子に聞き惚れて、一声も発しない。そのうちに「ホー」「ホー」と鳴き始め、やっと「ケキョ」が付け加わり、その片言のような鳴き声を繰り返しているうちに、玉を転がすという形容詞にふさわしい名調子のウグイスになるのだと聞いた。
 そして面白いことに、下手なウグイスほど師匠の鳴き真似が早く、そのかわり、それほど上手でない鳴き方でとまってしまうそうである。これとは反対に、名調子となるウグイスほど、初めのうちは長く沈黙が続いていて、「このウグイスはひょっとして駄目なのかも?」と思っているうちに鳴き始め、びっくりするほどの名鳥になるのだという。
 私たちの人生も全くこれと同じだといえよう。私たちの祖先たちは、物を完成させるためには一生を費やして取り組んでいた。食器や家具を初め、工芸品などずっと残っている見事な作品は、殆どが古代美術のものである。反して今日の工芸品は、ほとんどが祖先の作った作品には及ばない。なぜなら現代は、あまりにもせわしく、インスタントでコトを済まそうとする時代だからではないだろうか。きょう作ったらもう明日は市場に出す!そんな大量生産でもうコトは足れり、といった具合。
 特に人格の完成は、短時間などでは出来るものではない。この忙しく、そしてインスタントの時代であるからこそ、時間をかけて自分を磨いて行くことを忘れてはならない。第一ヨハネ3章18節には『子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではないか』と書いてある。密林の聖者といわれ、アフリカ原住民のために医療活動を生涯捧げたシュバイツァーに、或る人がたずねた。「なぜ医者になられたのですか?」と。すると彼は「私は言葉で人を援助することが出来ないからです」との答えが返って来たのだった。人生の芸術作品は、「少しでも他人の幸せを考えて生き、決して自分の利益を求めない生き方」で、磨かれて行くということになるに違いない。

 

何をするにも愛を目的とする

 投稿者:敏・記  投稿日:2016年 8月22日(月)01時17分12秒
  ・きょう(22日「チンチン電車の日」)が誕生日の方【贈ることば】『あなたは、わたしの目には高価 で尊い。たしはあなたを愛している』(イザヤ書43章4節)・すみ江学姉(横浜市)・隆学兄(呉市)・ドビッシー(フランスの作曲家、1862年)・シェーラー(ドイツの哲学者、1874年)《歴史メモ・東京の路面電車が新橋~品川で開始され「チンチン電車」と愛誦された(1903年)・日韓併合(1910年)・柔道が五輪の正式種目に決亭(1960年)》


何をするにも愛を目的とし、『わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない』(マタイ10章42節)

 イギリスの初期の社会主義運動家、エドワード・カーペンターの詩に、こんな詩がある。
  ひとつひとつの行ないに、あなたの注いだ愛の報いを求めてはならない。
  もし愛の報いを期待すると、それでおしまいになる。
  そうではなく、愛を目的にあらゆる行ないをしなさい。
  そうした時、今求めているものが最後に手に入るのだ。
  そのことがはるか昔の思い出になった頃、
  あなたのもとには誰も取っていくことのできない、永久不滅の財産が残っていることだろう。

 この詩の精神だが、何をするにも愛を目的とせよ、親切であらんがために親切であれ、決して代償を求めてはならない、報いを求めないでやったことが、自ずと自分のためにもなっているのだ!と言っていると思う。すなわち、冒頭に掲げた聖句にある通り、たとい「小さい者のひとりに冷たい水を一杯与える」という小さな愛のわざであっても、決して神の報いからもれることはないということである。
 そうすると、人が見ていようがいまいが、人からの報いを求めないで、ひたすら愛と正義のわざに励みなさいということになる。そして神からの御褒美なのだが、それは老若男女、学識経験を問わず、すべての人に与えられるのだと信じることだと確信する。それが心の安らぎ、満ち足りた喜びとなるばかりか、永遠の生命の冠となって表されるわけである。一日一日、報いを求めないで、愛のわざに励ませて頂こう。
 

忙しさは心のうるおいを失くす

 投稿者:敏・記  投稿日:2016年 8月21日(日)01時05分54秒
  ・きょう(21日「噴水の日」)が誕生日の方【贈ることば】『あなたは、わたしの目には高価で尊い。たしはあなたを愛している』(イザヤ書43章4節)・桃乃学姉(府中市)・朗子学姉(長野市)・マードック(イギリスの発明家、1754年)・ミシュレ(フランスの歴史家、1798年)《歴史メモ・ヘンデル「メサイヤ」を作曲(1741年)・生麦事件起こる(1862年)・東京上野で日本初の噴水が作られた(1877年)》*主日礼拝(聖歌隊練習、ハンドベル練習)

 「お忙しいですね」の言葉が挨拶になるほど、私たちは毎日何かに追い回されているようである。そのために私たちは、「なかなか暇がない」とか「とても忙しくてね」とかいう言葉が、いかにも名誉なことかのような錯覚に陥ったりする。そして「自分は本当に忙しいのだ」「忙しくしていなければならないのだ」と思い込んでしまったりする。この「せかせか症候群」は、残念なことに「ゆっくり事を行なうこと」や「暇であること」が罪悪かのように思ってしまう。「ゆっくり事を行なう」というのはそれほど悪いことなのだろうか。谷川俊太郎氏の「急ぐ」という詩がある。

  こんなに急いでいいのだろうか
  田植えする人々の横を時速二百キロで通り過ぎ
  私には彼らの手が見えない 心を思いやる暇がない
  (だから手にも心にも形容詞はつかない)
  この速度は早すぎて間が抜けている
  苦しみも怒りも不公平も絶望もすべて流れてゆく風景
  こんなに急いでいいのだろうか
  私の身体は速達小包、私の心は消印された切手
  しかもなお間にあわない
  急いでも急いでも間にあわない

 私たちの「忙しい」というのは、実際に時間が無いということよりも、心の潤いの喪失のほうに問題がありそうである。関連してJ・O・サンダースという人は、「偉大なる人物は、決して忙しいという自分の気持ちを他人に印象づけしない。むしろゆったりとしている感じを与える。非常に忙しくしているという印象を与えるような人ほど、たいてい非能率的な小人物である」と言っている。忙しいというのを心のどこかで誇りにしているこの者には、非常に耳の痛い言葉である。
 聖書のことば『あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る』(イザヤ書30章15節)

 

旅人へのもてなしとは?

 投稿者:敏・記  投稿日:2016年 8月20日(土)00時25分28秒
  ・きょう(NHK創立記念日」)が誕生日の方【贈ることば】『あなたは、わたしの目には高価で尊い。たしはあなたを愛している』(イザヤ書43章4節)・陽子学姉(横浜市)・けいこ学姉(富士市)・博子学姉(富士市)・真佐子学姉(多摩市)・尚哲学兄(南佐久郡)・淳子学姉(小山市)・ポアンカレ(フランスの政治家、1860年)《歴史メモ・日本放送協会創立(1926年)・新清水トンネル貫通(1966年)・日本初の3色灯信号機が銀座に設置された(1931年)》

聖書では「旅人をもてなす」という言葉がよく出てくる。その「旅人」とは誰を指して言うのだろうか。それは特別な人ではなく、すぐ身近かにいる人のことをいう。たとえば電車内だったら、年老いた人や身重なご婦人に席を譲る人がそうであり、足が不自由のため横断歩道を早く渡れない人に、一緒に歩いて渡って歩く人が「旅人」である。この「旅人をもてなす」ことで、とてもいい短編詩があるので、紹介したい。ツルゲーネフの作品である。
 『私が街を歩いていると、年老いた物乞いが私を引き止めた。血走って涙ぐんだ目、青ざめた唇、ひどいボロ服、きたない傷口……。ああ、この不幸な人間を、貧しさがこのように醜く食い尽くしたのである。
 彼は、赤くむくんだ汚い手を私に差し出した。彼はうめくように、うなるように、「お恵みを」と言うのだった。私はポケットの中を残らず捜したが、財布も、小銭も、ハンカチすら何ひとつ持ち合わせていなかった。しかし、物乞いはまだ私を待っている。差し出した手をかすかに震わせながら……。
 私はすっかり弱り果て、いらいらしながら、彼の汚い震える手をしっかりと握りしめた。「ねえきみ、勘弁してくれ、私は何ひとつ持ち合わせていないんだ」。物乞いは、血走った目を私のほうに向け、青い口元に笑みを浮かべて、私の冷たい手をぎゅっと握り返して、「いいえ、そんなこと」と彼はささやいた。「もったいねえことで!握ってくださったこの手もありがたい贈り物でございます」。私もまた、この兄弟から素晴らしい施し物を受けたと、そのとき知ったのである。』

 

失敗したときの言葉かけの大事さ

 投稿者:敏・記  投稿日:2016年 8月19日(金)00時21分44秒
  ・きょう(19日「バイクの日」)が誕生日の方【贈ることば】『あなたは、わたしの目には高価で尊い。たしはあなたを愛している』(イザヤ書43章4節)・昌代学姉(栃木市)・和彦学兄(佐久市)・郁子学姉(静岡市)・章子学姉(長野市)・ヘンリー五世(イングランド王、1387年)・ライト(アメリカの飛行機製作者、1871年)《歴史メモ・ドイツの飛行船ツエッペリン号来る(1929年)・「8」と19》の語呂合わせで「バイクの日」を設定(1989年)》

 「いままで自分は失敗したことが無い」という人はいないと思う。失敗そのものは決して悪いことではないのだが、「失敗の原因は何か?」の考え方が大事で、それによって人生を大きく変えてしまうから、非常に大事だと思うわけである。具体的には、「失敗したのは自分の努力が足りなかったから」と思うのか、それとも「自分の能力が無かったから」と思うのかによって、以後の考え方や行動が大きく変わってくるということである。
 「能力が無いから」の思い込みが、どれほど生き方に弊害をもたらすかを、ペンシルベニヤ大学のセリグマンという心理学の教授の動物実験から学んでみたい。教授は、犬をヒモと布でくくって逃げ出せない状態にしておき、繰り返し電気ショックを与えてみた。するとこうした犬は、あとになって逃げ出すことがたやすい状態に置かれても、ショックから逃げ出そうとせず、床の上にただうずくまってしまうことを発見したのだった。こうした現象を、教授は「学習された絶望感」或いは「学習された無気力」と呼んだ。
 子どもが何らかの失敗をした時、もし親か教師が「お前は能力が無い子だ」と言い、当人がそう思い込んでしまうならば、上の「ショックから逃れることの出来ない犬」と同じになってしまうわけである。「どうせボクは、いくら頑張ってもダメなんだ」という気持ちになってしまうからである。反対に「失敗の原因は努力が足りなかったからだよ」の前向きの言葉がかけられれば、「もっとやれば何とかなる」という希望も生まれ、ファイトが湧いてくるのである。セリグマン教授の原理に基ずくと、子どもに向かって「お前は頭が悪いからダメだ」とか、「力が無いから」などという言葉は、絶対に使ってはならないタブーな言葉だということがわかる。

 

二人の先生の違うところは?

 投稿者:敏・記  投稿日:2016年 8月18日(木)01時32分59秒
  ・きょう(18日「高校野球記念日」)が誕生日の方【贈ることば】『あなたは、わたしの目には高価で尊い。たしはあなたを愛している』(イザヤ書43章4節)・淑惠学姉(横浜市)・志保子学姉(下北郡)・ラブラン(フランスの細菌学者、1845年)・伊藤佐千夫(俳人、1864年)《歴史メモ・第一回全国中等学校野球大会(1915年)・チンギス汗の死(1227年)》

今朝は、或る町の書道塾で教えている、二人の女の先生の言葉遣いの違いを書いて、共に考えてみたいと思う。
 ひとりの男の子が書道を習おうと入塾して来た。その男の子は家庭が貧しかったので、新しいスズリ箱を持って行くことが出来なかった。そこで母親は思案工夫をして、お菓子の空き箱でスズリ箱にして持たせてあげた。それを見た書道の先生は、こう言った。「あら、いいスズリ箱ね。あなただけよ、こんなすてきなスズリ箱を持っているのは」。その一言で、子どもが意気揚々として帰って行ったことはいうまでもない。次の習う日がやって来たので、その子は例のスズリ箱を持って書道塾に習いに行った。たまたまその日は、代わりの先生が教えていた。先生はその小学生のスズリ箱に目をとめるやいなや、「○○君、お菓子の空き箱だからといって、何も恥ずかしがる必要はないんだよ。がんばってね」と言った。先生はきっと励まそうと思って言ったのだろうが、結果は逆だった。男の子はしおれて帰って行った。
 瞬間、口をついて出る二人の先生から発せられた言葉!その違いはどこにあるのだろうか。これは、普段の生活での心の持ち方にありそうである。すなわちプラス思考かマイナス思考が分かれ目のようで、とても考えさせられる。

  『あの人』(河野 進)
  あの人が微笑みながらはいってきた
  そのとたん明るくなった なごやかになった やさしくなった
  思いやり深くなった 争いがなくなった
  どうしてこうも心が変わるのだろうか

 

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